三国志にちなんで3(さんごく)・4(し)
つまり34
個人的主観ですが好きな武将を34選まとめてみました
軍師は武将(武官)じゃなくて文官では?と思われますが官職名は軍師将軍が正式名。つまり武官よりの官職となり武将扱いとする(諸葛亮や龐統もこの官職に就いていた)
三国志の好きな武将ランキング34位~30位
第34位 張角(ちょうかく)
西暦184年に黄巾の乱を起こしその主導者
三国志の物語の始めはここから始まる
曹操や孫堅などの群雄も討伐に乗り出し大規模な制圧戦が起こる。黄巾の乱が無かったら劉備も義勇兵として世に出なかったかもしれないと考えると重要な存在だった張角
実はランキングが50選や20選などの場合でも必ず最下位には入れようと思ってました
ちなみに字(あざな)は不明
第33位 孟獲(もうかく)
南蛮王で有名な孟獲
雍闓(ようがい)という武将が蜀漢に反乱を起こした際に一緒に加わり、更に南中の者に反乱に加わるよう説得した
西暦225年に諸葛亮が遠征してきた際には雍闓は部下に殺され孟獲が実質のリーダーとなる。諸葛亮は孟獲を7回捕らえ、7回解放した七縦七擒(しちちょうしちきん)を以って心から諸葛亮に降伏させた
このランキングに選んだ理由は7回も挑む勇気が有った事
普通なら3回程度挑んで駄目だった場合諦めると思いますが孟獲の熱意が凄い!
第32位 于禁文則(うきんぶんそく)
魏の名将五代将軍に数えられる一人(張遼・于禁・楽進・徐晃・張郃)
一番の活躍は西暦200年の官渡の戦いでしょう
当時の戦力は袁紹軍10万・曹操軍1・2万程と言われています。しかし于禁と楽進は袁紹軍の兵糧を焼き、隙があればことごとく陥落させて行きました
この活躍以降目をかけられ、官職の位は左将軍にまで上り詰めました
于禁はこの後西暦219年の樊城の戦いで一度の降伏によりすべてを失います
結局2年後に捕虜は解放され魏に戻るのですが曹操の墓参りの際に自分が降伏した絵を見せられストレスにより更に2年後に病死する
第31位 郭嘉奉孝(かくかほうこう)
曹操が最後まで信用した軍師
元々は袁紹軍に入ろうとしたが袁紹が天下を取る人物では無いと判断するとその場を去りました。その後知人であった荀彧からの推薦で曹操に仕える事を決意
当時の袁紹軍の勢力は約10万・曹操軍は1・2万程の戦力差だった為、曹操も流石に不安になっていました
しかし郭嘉は公(曹操)には十の勝利の要因があると曹操を安心させた事が有名です
袁紹は兵力が強大であるとはいえ、策を考案する能力が欠けています
歴史の読み物より
袁紹は面倒な礼儀や作法などを好んでおりますが、公は自然の姿に任せておられます
これは道において優れた面であり、公が優位となる第一点です
後は劉備に対して後々災いになると曹操に進言したり先を見る目を持っていました。結果劉備とは天下三分の計で魏・呉と争う程の強国となる
第30位 孫権仲謀(そんけんちゅうぼう)
孫呉を長く繁栄させた手腕の持ち主
孫堅のような強さ・孫策のようなカリスマ性はハッキリと言ってありません。劉備・曹操のような目立つ活躍は無いが19歳という若さで家督を継いだ
王としての統治力はずば抜けて高かった
王の中では一番の長生き(享年69歳)
※劉備(享年61歳)曹操(享年65歳)
三国志の好きな武将ランキング29位~20位
第29位 文醜(ぶんしゅう)
袁紹軍の顔良(がんりょう)・文醜の2枚看板の猛将
正史と三国志演義ではやられ方も違ってくるが、三国志演技では顔良と共に関羽に斬られて死ぬ
しかし文醜は後の魏五大将軍に数えられる張遼を弓で射落とし、徐晃を退ける程の実力です
ちなみに正史では荀攸の策にハマりあっけなく亡くなります。仕える君主が違っていれば武勲をもっと立てれたかもしれない事が惜しい!
第28位 馬岱(ばたい)
蜀の忠臣
五虎大将軍馬超の従兄弟に当たる
彼の主だった活躍は諸葛亮が南征をし孟獲軍と相対した時、兀突骨などの主力を倒すのに活躍した
魏延の副将としてずっと行動を共にしていたが、魏延は反骨の相があると諸葛亮から言われており諸葛亮が五丈原にて没した際に楊儀が蜀軍を退却させた
しかし魏延は退却の指示に従わず楊儀に反旗を翻す。主戦力だった武将は既に亡くなっており魏延に戦いで勝てる者が居なくなった今強気な言葉を言う
魏延『わしを殺せるものがあるか!?』
馬岱『ここにいるぞ!』
と馬岱は言い放ち魏延を切り殺しました。実はこれは諸葛亮が亡くなる前に馬岱に授けた策
蜀の為に諸葛亮の策を実行した馬岱の忠臣ぶりが素晴らしい
第27位 荀攸公達(じゅんゆうこうたつ)
曹操・曹丕にも敬まれた軍師
元々は董卓に仕えていたが、董卓の暴虐さが目に余り暗殺計画を立てます
しかし計画はバレて荀攸は牢屋に入れられる。仲間たちは恐怖で自害をしたが荀攸は特に態度を変えず平然と過ごす豪胆さ
結局董卓が討たれその際に解放されるが曹操に誘われて仕える事を決意。この豪胆さが曹操に気に入られたそうです
策も想像を超える案が多く曹操の手助けになったとか
第26位 張飛翼徳(ちょうひよくとく)
蜀最大の武力の持ち主
桃園の誓いにより劉備・関羽・張飛の義兄弟の契りが有名。乱暴者・酒乱で部下に対しては厳しかったようだが劉備などの目上の人間に対しては優しい
その張飛が一番有名な長坂坡(ちょうはんは)の戦い
曹操軍5000騎の追撃から僅か20騎で追撃を凌いだ武勲があります
長坂橋にて『燕人張飛ここにあり!』と有名な異名が生まれました
後は城の守備を任されていたが劉備に禁酒しなさい!と命令があったにも関わらず飲酒して呂布に城を明け渡してしまった事もあったり
第25位 劉備玄徳(りゅうびげんとく)
三国志史上最も人に愛された男
黄巾党討伐の前の劉備はわらじやむしろを編んで市場で売って生計を立てている男でした
元々は中山靖王(ちゅうざんせいおう)の末裔という血筋のおかげでもありましたが、そこに関羽・張飛が加わり後に趙雲・諸葛亮などが加わり何の力も無い男が一国を作る程になりました
彼の人徳がずば抜けて凄かったと思わされる理由ですね
ちなみに国主達が言われている事
曹操は天に愛され・劉備は人に愛され・孫権は地に愛されたと言われている
第24位 夏侯淵妙才(かこうえんみょうさい)
即効の判断力
曹操軍の中では夏侯惇と並んで古参にあたる武将
弓の達人であり的に当たった4本の矢のいずれも真ん中を打ち抜く技術の持ち主
一番の戦果は涼州征伐の際に趙衢と尹奉という部下が馬超にやられかけている際に一部の配下は曹操の指示を仰ぐように提案するが『返事を待つ内にやられてしまう!』と速攻で部下の救援に行きました
結果として戦わずに救助は行えた訳です
第23位 黄蓋公覆(こうがいこうふく)
赤壁の戦いの一番の立役者
巨大になりすぎた曹操軍を劉備・孫権軍で倒す戦が赤壁の戦い
龐統の船を連結される連環(れんかん)の計というのも甚大な被害を与えた一つの策だが
同盟軍:船を連結される事により火を放った際に散り散りに逃げさせないようにする
曹操軍:船の上での生活の為船酔いやそれにより疫病が流行ったので船を連結する事により揺れを抑える
両軍側にもメリットがあると思われた策
実際に火計を行った黄蓋こそが一番の立役者
そのやり方が中々に凄い方法で普通に降伏しただけでは怪しまれるのでまず自分を鞭打ちにしました。自分が傷だらけの為怪しまれず降伏が出来たという訳です
結果降伏は偽りだった為その後火を放ちました
第22位 荀彧文若(じゅんいくぶんじゃく)
曹操を天下に知らしめた軍師
西暦196年に帝を曹操の元で保護をしろと進言したのが荀彧です。帝が自軍に居れば大儀は曹操に有り!と他国に思わせた
これだけでも荀彧の評価はとんでもなく高い理由ですが戦術面でも官渡の戦いにて曹操は撤退した方が良いのではないか?と荀彧にアドバイスを貰ったところ曹操の長所を4つ挙げ、撤退はするなと進言をしました
結果戦力差8~9万の戦を勝利
また、他の有名な軍師(司馬懿・郭嘉など)も荀彧の進言の元仕官したと言われています
第21位 甘寧興覇(かんねいこうは)
水賊上がりの実力者
昔は乱暴者で只の賊だった
凌統の父親を殺してしまった事により凌統から恨まれているが濡須口の戦いで凌統を救い和解。その後深い親交を結んだと言われた
甘寧の有名な話として戦いの際に鈴を持っていたので鈴の音が聞こえると甘寧が来た!!と恐れられた
乱暴者だった甘寧も部下に対しては養い・育成を良く行っていたので部下からの信頼は高かったようです
第20位 夏侯惇元譲(かこうとんげんじょう)
隻眼の魏古参の武将
曹操とは従兄弟にあたり夏侯淵と共に建国前から曹操を支えた武将。官職は西暦220年に大将軍と一番のポストに就いています
しかしこの年の正月に曹操が亡くなり、4月に夏侯惇が亡くなりました。死亡時期までほぼ同じなので曹操の仲の深さが感じられる
実は夏侯惇は戦では負け戦が多かったと言われている
董卓戦に1敗・呂布戦で1敗・袁紹戦で1敗などで特に呂布討伐戦では流れ矢に当たって片目を失う
曹操の信頼を厚かった武将ですが失敗も多かった武将です
三国志の好きな武将ランキング19位~10位
第19位 姜維伯約(きょういはくやく)
蜀の復活を計画した武将
最初は魏に居たが諸葛亮にその才を見出され蜀に勧誘(降伏)された
諸葛亮亡き後も昇進を重ね、官職も最高で大将軍にまで上り詰めたが劉禅が成都を簡単に明け渡した為蜀は滅亡しました(蜀の人材不足により敗戦が続いた事も有り)
その後成都の守備を任されていた鐘会という男に姜維は大層気に入られました。この時に姜維は鐘会を誑かし蜀の復活計画を考えます
結局他者の吹き込みがあり鐘会と姜維は殺害されて復活計画を失敗に終わりますが、享年63歳という年齢まで蜀の為に行動を起こした事は素晴らしいですね
第18位 凌統公績(りょうとうこうせき)
政治にも長けた武将
孫呉の領土内に江東があるが多くの異民族達が住んでいた
度々異民族は孫呉に対して反乱を行っており孫呉も対応に困っておりました。そこで凌統も鎮圧戦に参加した際に異民族を味方に出来たらと思いつきます
異民族達に諸々の施しを行い味方に引き入れる事に成功する。そうして孫呉の戦力を広げた経歴が有り武力だけでは無く知力も兼ね備えた武将
第17位 陸遜伯言(りくそんはくげん)
呂蒙が認めた隠れた才能
干ばつに苦しんでいた民に国の蔵を解放して食料を分け与えたり、農耕などの生産性を向上させる政治の手腕の持ち主
後は疲弊していく村を捨てて山に逃れていく民を自分の兵とし、山賊を含めた2000の兵士を得る事に成功。兵の増強にも抜かりがない武将と言えるでしょう
陸遜一番の武勲は関羽を討つ事に1枚噛んだ事です
陸口に就任した時に荊州の守備をしていた関羽に手紙を送付
『自分は大した事の無い武将です、関雲長様は凄い方です』自分が下に思われるような手紙を送ったのです
関羽は傲慢な正確の持ち主でもあるので大した奴では無いと油断し荊州南部の警備を緩くします
その後警備を緩くした方向から孫呉が攻め入り呂蒙が関羽を討ち取る事に成功
陸遜の案無くては得られなかった結果ですね
第16位 徐晃公明(じょこうこうめい)
魏最大の武力の持ち主
元は白波賊という賊徒の一員で戦に出れば連戦連勝の武力を誇り、呂布を退け、劉備を退け、袁紹を退け、馬超をも退けた事があります
しかしこの武勲を徐晃は自慢をすることも無く謙虚さも持ち合わせておりました。徐晃の武勇と謙虚さは関羽も一目置いており敵軍でありながら張遼と徐晃は交友があったそうです
荊州の関羽を倒したのは実際に呂蒙ではあるが、この時魏の援軍として徐晃が派遣されておりました。長い遠征後でありながら関羽軍の包囲網を正面から打ち破った徐晃は後に『長駆直入』と称された
官職も最終的には右将軍まで上り詰め魏の武神的存在
第15位 周倉(しゅうそう)
関羽に対する忠誠心
周倉は正史には存在しない架空の人物
黄巾の乱に参加(黄色い布を付け張角側として)しており山賊出身
関羽との出会いは西暦200年の関羽千里行後の出来事で山賊だった周倉を叩きのめし周倉が仲間に加わりたいと懇願した事が始まり
武勲は龐徳を捕獲したなど言われておりますが周倉の一番の魅力は関羽に対する忠義心です
関羽が打ち首にされる際には麦城の守備を行っていたが後日関羽の打ち首を見て城壁から飛び降りて自殺しました
関羽に対する厚い忠義心により2021年現在の関帝廟には関羽の横に息子の関平・従者の周倉が共に祀られています。元々は山賊でしか無かった周倉が信仰の対象になる武将となりました
素晴らしき忠誠心
第14位 呂蒙子明(りょもうしめい)
武神関羽を討った功績
元々は貧しい家の出で姉の夫(鄧当)が孫策の武将として仕えていました
鄧当が死後呂蒙がその軍を引き継いだ
まだ無名であった呂蒙は馬鹿にしてきた役人を殺すという罪を犯しました。しかしその後孫策自らが呂蒙と面談し何かを見出され重宝したと言われている
そんな呂蒙が誰も倒せなかった関羽を陸遜達と共に討ち取りました。怒った劉備は追悼戦だと孫権に進軍を行いその際に張飛も部下に殺されました
劉備も関羽が亡くなった3年後には病死をする訳ですが呂蒙が劉備兄弟達を葬ったと僕は思っています
呂蒙の有名な逸話として関羽を討った後にすぐ病死する。これは関羽の呪いだと語り継がれました
第13位 黄忠漢升(こうちゅうかんしょう)
五虎大将軍の老将
黄忠は60歳を超える年齢でありながら関羽との一騎打ちで互角の戦いを行った武力の持ち主
官職は後将軍
この官職を得る際に関羽が『老人と同じ扱いは納得いかない!』と不満を言った事はあまりにも有名です
武勲としては恐らく70歳前後の時に西暦219年の定軍山の戦いにて同じく弓を得意とする夏侯淵を討ち取りました
その後功績が認められ五虎大将軍の一人となる
老兵でありながら五虎大将軍に抜擢された具体的な理由は分かっていませんが、どんな者でも評価をするぞというパフォーマンスだったのかもしれません
第12位 司馬懿仲達(しばいちゅうたつ)
晋の礎を築いた諸葛亮のライバル
諸葛亮に匹敵すると言われていた軍師
横山光輝三国志では『まてこれは孔明の罠だ』というセリフがあまりにも有名
司馬懿の一番の功績は魏に対してクーデターを成功した事。曹爽(曹丕の子)を油断させ西暦249年にクーデターを起こしました
この時の司馬懿の年齢は71歳で2年後には亡くなりますが死後に子の司馬昭達が晋を建国しました
晋の建国には司馬懿の存在が必要不可欠だった訳ですね
個人的には一番司馬懿にグッと来た事は横山光輝三国志にて、五丈原の戦い最中に孔明が亡くなっていたにも関わらず撤退する蜀に司馬懿は追撃をしませんでした
孔明の罠だ!と思って追撃しなかったのに死しても尚孔明にしてやられた際に言った言葉『あの世でゆっくりと教えを乞いたい』というセリフに司馬懿の感情が詰まっており感動しました
第11位 曹操孟徳(そうそうもうとく)
治世の能臣、乱世の奸雄
三国志演技や横山光輝三国志などは基本的に蜀(劉備)が主人公として描かれています。その中で曹操は最高の好敵手として描かれていました
あまり描写がないが曹操も人に愛された男。夏侯惇・夏侯淵を初め、後に典韋・徐晃・張遼などの有力な武将を仕えさせます
また自分勝手な戦も始めたり(呉の大喬・小喬を得る戦)
良い点・悪い点すべてが曹操の魅力と思っています
蒼天航路という漫画は曹操が主人公なので是非読んでみてください!きっと曹操が好きになるはずですよ
第10位 孫策伯符(そんさくはくふ)
江東の小覇王
孫策は僅か25歳という年齢で亡くなった武将
そもそも異名である小覇王の意味は項羽のような存在だったと言われた事です
覇王=項羽
元々は袁術軍の将軍として動いていたが、袁術から1000の兵馬を借り独立を目指します
そこに孫堅に仕えていた程普や黄蓋+周瑜を加えた軍勢で江東の制圧に向かう。叔父である呉景・孫賞軍を加えた際の軍勢は約5000まで膨れ上がった
会稽の王朗を討ち取り江東を制圧するに至った訳です
反乱分子の制圧がその後ありましたが呉景・孫賞を袁術軍から引き抜き袁術から独立を果たしました
異名の元となった項羽と違い孫策が唯一優れている事は他人の意見を聞く・人を使う事が上手い事です
武力に関しては項羽が上回り、項羽が人の意見をもっと聞き入れたのならば劉邦に対して結果は変わっていたかもしれません
太史慈・呂蒙・周泰などの有力な武将を仕えさせた孫策はカリスマ性が凄かった。建国自体は弟の孫権が行うがこの若さ・短い期間で一国を作る器量は三国志で一番と言える人物
三国志の好きな武将ランキング9位~1位
第9位 魏延文長(ぎえんぶんちょう)
反骨の相があるも蜀の為に戦い続けた武将
諸葛亮からは反骨の相(裏切る予定)があると仲間ながら警戒をされていた武将。彼の武力は五虎大将軍達には及びませんがその5人に次いで最高の武力の持ち主
元々は一隊長として同行した身ですが手柄を立て劉備はそんな魏延を漢中太守に任命しました
劉備が漢中王を名乗った際に官職は鎮北将軍に昇進
劉備が亡くなり諸葛亮が全軍を指揮を執るが魏延が進言しても諸葛亮は魏延に対し良い返事をしませんでした。そして諸葛亮の副官でもある楊儀に対しても舐められているような態度を取りこの2人に対して不満が出ます
結局諸葛亮が没した後に馬岱に切り殺されてしまいますが、五丈原の戦いで撤退する事を拒否した理由も蜀の為では無いでしょうか?
取り立てて貰った劉備の為に蜀に尽くした忠臣だと僕は思っています
一つ有名な逸話として諸葛亮の寿命が残り僅かな為延命の儀を執り行う事がありました(延命の儀を行っても寿命が延びる保証は無いです)
しかし何も知らない魏延は敵が迫っている為その儀を邪魔します
『これも天命か』と諸葛亮は運命を受け入れますがこれに対しては誰も恨みをかっていません
第8位 呂布奉先(りょふほうせん)
三国志史上最強の武人
最強の武人・最高の馬(赤兎馬)に乗る武将
封神演義だったらこれに最強の宝貝を持つ申公豹みたいな存在ですね
元々は丁原(ていげん)に使えており殺害し董卓(とうたく)に使えます
しかしその董卓も殺害し流浪の身となり、更に身を寄せた袁紹を裏切り、その後に身を寄せた劉備を裏切り、魏延よりよっぽど反骨の相があった人物
そんな呂布も三国志最強と言われる逸話が3点有り
①劉備義兄弟3人を同時に相手し互角の戦いをした
②張燕という山賊相手に戦力1万に対し僅か10数騎で勝利
③百歩先の戟の中心に矢を当てた
最強の敵、呂布という存在が居たからこそ序盤の三国志は盛り上がったはずです。単純に最強という単語に憧れる少年心がこのランクの理由
第7位 趙雲子龍(ちょううんしりゅう)
劉備・諸葛亮が最も信用した忠臣
五虎大将軍の一人に抜擢される武将
しかし趙雲は五虎将の中では一番位が低い存在です。馬超・黄忠は直前で手柄を立てただけなのに趙雲が一番下の評価は正直僕は納得できません
趙雲の一番有名は逸話は西暦208年の長坂坡の戦いでしょう
劉備の子阿斗(後の劉禅)を救い出し単騎で曹操軍を駆け抜けた武勲を持つ。ここから劉備は趙雲の武力・忠誠心に心を打たれ重宝したと言われています
趙雲は主に護衛として任される事が多く、諸葛亮が周瑜から逃れる為に寄越した援軍は趙雲でした。また劉備が孫権の妹、孫尚香と結婚をする際に選んだ護衛も趙雲です
関羽や張飛ではなく趙雲が選ばれた理由は2人に最も信用されていたからでしょう
劉備が亡くなってからも蜀の為に働いた立派な忠臣
第6位 楽進文謙(がくしんぶんけん)
シンデレラストーリー
楽進は反董卓連合からの古参の武将
元々は兵士として参加したにも関わらず小柄な為、軍の記録係からの採用でした。その後故郷に帰り1000人の兵士を連れて曹操に会いに行った後武将としてスタート
呂布戦以降では一番乗りで手柄を立て将軍として取り立てられました
更には袁紹軍を滅ぼした官渡の戦い・曹操軍に大打撃を与えた赤壁の戦いなど大事な戦ですべて手柄を立てた(特に官渡の戦いでは楽進と于禁の活躍で勝ったと言ってもいい程)
最後は合肥の戦いの後『右将軍』として任命され大将軍まで上り詰めたのです
軍の記録係⇒武将⇒大将軍と夢のある大出世が出来たのは楽進だけでしょう
第5位 孫堅文台(そんけんぶんだい)
江東の虎
孫策・孫権の父親
孫家のルーツが正確な情報では無いが孫氏の兵法書を記した孫武が先祖と言われている(違うという見解も有り)
孫堅のとんでもない逸話はある日父親と銭唐という地へ行った際に海賊と出くわす
海賊の規模は流石に不明ですが17歳という若さで単騎で海賊討伐を決行。方法は海賊達に見える位置に立ち、周りの人に指示をしているように見せました
海賊達は官軍が来たと慌てて逃亡します。孫堅はその後追撃を行い海賊を見事一人で討伐してしまった
海賊討伐の功が認められ村の警備隊長に任命される。更に黄巾党の戦い・董卓との闘いで手柄を立て長沙の太守に任命
37歳という若さで亡くなりますがこの勇猛さが孫呉に伝わっております。結局孫堅の部下達は袁術の配下に加わりますが息子の孫策が独立・孫権が建国を行っている
第4位 典韋(てんい)
曹操が涙した窮地から救った悪来
悪来という異名があるのはご存じですか?
殷の紂王に仕えた蜚廉(ひれん)の子を嬴来(えいらい)と言い嬴来は怪力が有名でした
そこで曹操は八十斤の戟を振り回す典韋を見て『いにしえの悪来の再来だ』とそこから来ています(ちなみに八十斤は約48kg)
典韋は曹操の護衛として片時も傍を離れる事はありませんでした。しかし荊州の地を治めていた張繍(ちょうしゅう)が曹操に降伏を申し出た
この数日後、張繡は張繡の伯父・張斉(ちょうさい)の未亡人を妾にしていた事が不満で曹操を裏切ります
典韋が陣営の門で敵を食い止めた為、曹操は何とか逃げ延びるが典韋の部下が全員死に孤軍奮闘するもついに典韋は力尽きます
典韋の戦いぶりは敵も称賛するほどの戦いだったそうです。曹操は典韋の死を聞くと悲しみ涙を流し、曹操の自業自得の為に有能な部下を死なせてしまった事を酷く後悔しました
西暦243年には曹操の霊廟に功臣が祀られた際には典韋も加えられております
第3位 諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)
死後も蜀を救った男
伏竜(諸葛亮)と鳳雛(龐統)の2人を得たら天下を取れるとまで言われた人物
群雄割拠していた時に天下三分の計(蜀・魏・呉)の争いになると予言を立てた。単純な戦術だけでなく先を見通す目を持っていた
そんな諸葛亮を配下に加える為に劉備は三顧(さんこ)の礼を以って勧誘を行った
諸葛亮の人間離れした逸話は2つ有り
①赤壁の戦いの際に東南の風を起こした
②自分が死んでも司馬懿の動きを止めた
特にこの2つ目の事を『死せる孔明、生ける仲達を走らす』と言います
諸葛亮の立てる戦略はことごとくはまり、他軍に戦力差を覆す戦は多々ありました
個人的には横山光輝三国志で亡くなる前の劉備との会話はかなりグッと来ます、三国志を読んで初めてここで泣きました
諸葛亮は三国志を知らない方でも知っている知名度No1の武将です
第2位 張遼文遠(ちょうりょうぶんえん)
圧倒的戦力差を覆した男
魏の五大将軍の筆頭
張遼は主が丁原⇒何進⇒董卓⇒呂布⇒曹操と変わっています
魏延以上の反骨の相じゃない?と思われるけど単に主が亡くなっているだけ。張遼は色々な戦いで出世を重ねて行きますがこの戦いだけ知っておけば十分な戦があります
合肥の戦い
張 文遠ここにあり!と知らしめた戦
そのとんでもない内容が以下の通り
①10万の大軍に800騎で特攻する
②陳武を討ち、徐盛を負傷
③包囲網を突破
④引き返し敵軍内の孤立した味方を救出
⑤半日戦い続ける
⑥7000の兵で合肥を死守
三国志演技は創作小説ですが
上記内容は正史である『魏史』『呉史』に記録されている本当の内容です
三國無双というゲームがありますが張遼は実際にゲームみたいな実績を上げています
この恐るべき張遼の活躍は呉では『遼来遼来』
張遼が来るぞ!と恐れられるようになりました
第1位 関羽雲長(かんううんちょう)
神となった男
最初の関羽の活躍は反董卓連合時に華雄との一騎打ちで勝利した事により注目を浴びます(正史では違う)
華雄が居る為連合軍は進軍出来ずに立ち止まっていました。そこで関羽は私が倒そう!と名乗りを上げますが袁紹はたかが足軽風情が出しゃばるな!と制止するが曹操が後押しをしました
結果関羽が勝利
ここから曹操は関羽を欲しいと思い始めます
下邳の守備をしていた時に曹操は劉備を急襲し、劉備は袁紹の元に逃げ関羽は曹操に降伏をする。この時に曹操は関羽を偏将軍任命し厚遇をするも劉備に対する義から曹操に対する施しをことごとく断りました
関羽の忠義心はこの1件以来瞬く間に有名となった
その後は荊州の守備を行い魏・呉の同盟軍をもって関羽は討たれてしまいましたが関羽が得た武勲や義の厚さから死後後世の人達から神格化され現在は商売の神様として祀られています
関羽に関しては以下の記事で更なる詳細をチェック!
まとめ
・三国志には武将それぞれの魅力がある
・張遼の合肥の戦いの逸話は現実
・三国志には正史と三国志演義という創作小説がある
三國無双などのゲームから三国志を知った方が多いですが、もっと三国志の世界を知りたい方は横山光輝三国志がおすすめです
他にも漫画によっては孫策が主人公だったりと色々な視点で楽しめるので是非三国志が題材の漫画を読んでみてください
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