【三国志】関羽雲長とはどういう人物だったのか?|神格化武勇伝等

関羽雲長という人物。死後、神として崇められた男

超有名武将の関羽について

ゲーム程度では知っているけど・・

三国志の漫画など読んでそこそこ知っているよ

どちらの方向けにも分かるよう関羽について細かく記載しているので是非ご覧ください

目次

概要

まず三国志という物語は陳寿が記した『三国志』羅貫中が記した創作小説の『三国志演技』という書物から読み解かれています(正確には蜀志や魏志など入れると更にある)

この中で世の中で特に広まっている内容が『三国志演技』という書物

三国志演技は創作なので実際には記されていない歴史がかなり盛り込まれています

例えば一つ例を挙げると関羽の武器に関して

青龍偃月刀(冷艶鋸)を武器として使用したとあまり三国志を知らない方でもこの武器名は聞いたことはありませんか?

実はこの武器自体が三国志演義に記された創作の武器なのです。三国志の時代は西暦189年~西暦280年の頃を指しますが、三国志演義が出来た時代はその約1000年後です

三国志という歴史書には一切青龍偃月刀の記載は無く、後の創作内容の方が世間に広まりました。我々も漫画キングダムのように分かりやすい方がその時代に関してより理解が得られるので、理解がしやすい観点から三国志演技が広まった理由となる

ちなみにほとんどの有名武器も創作

本当は正しくは無い歴史ではありますが、歴史書と創作小説の2つの内容が三国志となる訳です

関羽雲長とは

関羽雲長とは

姓は関、名は羽、字は雲長(かんううんちょう)元の字は長生

正確には生まれた年月日は不明だが西暦160年~西暦220年まで生きたとされる

祖父が関審、父は関毅、子は関平・関興

出身地が司隷河東郡解県(現在の山西省)だが、その後幽州涿郡(現在の北京周辺)に移り住む。この地で出会った人物こそ劉備・張飛の2人

この時に行った義兄弟の儀式(長兄:劉備・次兄:関羽・末弟:張飛)があの有名な桃園の誓いと呼ばれている(ちなみに桃園の誓いも三国志演技上の創作です)

桃園の誓い
『我ら三人、生まれし日、時は違えども兄弟の契りを結びしからは、心を同じくして助け合い、困窮する者たちを救わん。上は国家に報い、下は民を安んずることを誓う。同年同月同日に生まれることを得ずとも、同年同月同日に死せん事を願わん。皇天后士よ、実にこの心を鑑みよ。義に背き恩を忘るれば、天人共に戮すべし』


最終的には蜀漢の創始者劉備に仕え続け、自国のみならず敵国からも称賛され、蜀の武官最高位の5人五虎大将軍の筆頭に任命された

五虎大将軍
関羽・張飛・趙雲・馬超・黄忠の五人の武将を指す


関羽は長い髭を携えている事が特徴でありその長さは2尺(約50cm)あったと言われています。三国志演技では美髯公(びぜんこう)と呼ばれている程。ちなみに身長は9尺(約210cm)ありかなりの巨漢である事が伺える

三国志演技上での呼ばれ方として関雲長・雲長などと呼ばれており諱(いみな)を避けた記載が特徴だったそうです。実は正しい歴史書の『三国志』では関羽の活躍はそこまで記されておらず、この三国志演義で関羽の凄さが特に伝わりました

字(あざな)・諱(いみな)に関しては以下の記事を参照

また、関羽には傲慢な部分があった事も記されており、少し前に記載した五虎大将軍任命の際に黄忠という齢60歳を超えた武将が選ばれます。蜀としては年齢・新参者などは気にせず信頼と功績を称えて五人の武将達を任命

しかしその際に関羽はあんな老いぼれと同列なのか!?と前将軍という官職を断ろうとします。結果的には文官の費詩(ひし)に説得され拝命したとされている

五虎大将軍の位

関羽:前将軍
黄忠:後将軍
張飛:右将軍
馬超:左将軍
※趙雲のみ○将軍の官職に任命されず他4人より役職が低い


完璧な性格かと思われた関羽にもこのような一面があったと思うと、同じ人間だと思いほっこりしますね

関羽の死

関羽の死

荊州(けいしゅう)の守備を任されていた関羽は結果的に魏・呉の同盟軍により敗戦を喫した

実はこの敗戦を喫した理由も関羽が傲慢な性格の持ち主だった為

この少し前の戦では巨大になりすぎた曹魏を倒す為、劉備・孫権との同盟軍にて赤壁の戦いを行いました。それにより劉備・孫権間との同盟は続いておりました。その際に約束した事が荊州南部の領土譲渡を約束しております

しかし関羽は勝手に領土譲渡を断ってしまいました。これに困った孫権は関羽の娘と孫権の子と縁談を持ち掛けます。当然この縁談も関羽は断ります。縁談の断り方も悪くこれが孫権を特に怒らせてしまった理由

関羽:虎の子(関羽の娘)を犬の子(孫権の子)に遣れるわけがあるまい


この発言は流石に怒ってしまいますよね?これが決め手になり孫権との関係が悪化

西暦218年~219年ついに荊州の領地が動き始めます。関羽は荊州の曹操領である樊城(はんじょう)に攻め込み曹仁に大打撃を与える

その際に魏の于禁が大軍を引き連れ曹仁の援軍に来るも大洪水による被害が甚大で関羽に敗戦を喫します

関羽の快進撃もここまでは良かったがこの後に魏が新たな動きを見せる

魏の軍師司馬懿の案により孫呉と協力し、関羽を背後から攻撃しようと話を持ち掛けます。縁談を断った事などにより関羽の事を良く思っていなかった孫権は呉・魏の同盟を承諾

関羽を退けた後は荊州南部は呉が得られるという約束を取り付ける

ここで当時無名の武将であった陸遜が出てきます。陸遜は当時まったく無名でしたが呂蒙に認められており関羽討伐以降その才が認められ才覚を露わにしていきます

実際に陸遜はどう関羽を落としていくかと言うと、関羽の傲慢な性格を利用し手紙を送ります。内容は以下の通りで

呂蒙に代わり荊州東部の守備を任せられましたが私には大役を任せられました。関羽様はとても優秀であり頼りにさせていただきます


この手紙により関羽は呉(陸遜)に対し警戒を緩めてしまいます。呉は呂蒙こそ油断ならない相手と思っていたところ陸遜の気弱な手紙に大したことの無い相手を思わせた訳です

これにより荊州東部の守備は手薄になり呉に攻め入られる。樊城を包囲している関羽はようやく自分の失態に気づきました

関羽軍の後方は陸遜により完全に攻め入られ、部下・妻子が捕虜となった後でした。この事実に気づいた関羽軍の大半は降伏

ここで関羽は樊城の包囲網を解き、西の麦城(ばくじょう)に逃げるが退路を防がれついに呉に捕縛されます。最後は呉の臨沮(りんしょ)により処刑される

処刑された後、関羽の首は曹操の元へ。体は孫権の元へ行きそれぞれ関羽に敬意を表し首は洛陽、体は当陽にて手厚く葬ったと言われています

関羽が亡くなった後の有名な話として、魏の曹操は関羽の亡霊を見た後病死、呉の呂蒙も関羽を討った功績を称えられてはいたがその後すぐに病死した。また、呉は他にも甘寧や凌統などの武将が病死しており関羽の呪いと囁かれた

その後劉備と張飛は関羽の弔い合戦である夷陵の戦いで大敗を喫し、劉備は大敗後に病死、張飛は戦に合流する事無く部下の張達(ちょうたつ)と范彊(はんきょう)により命を落としています

関羽が無くなってから他の義兄弟達もあっという間に命を落とす結果となりました

武勇伝

毒矢の治療

関羽が樊城攻略の際に曹仁に毒矢を腕に受けてしまい毒が骨に達した事がありました

その治療方法があまりの痛みの為に腕を柱に括り、顔を布で隠し骨を削り薬を塗ることが治療内容

しかし関羽はなんだそれだけの事かと簡単に言い、医者の華佗(かだ)にそのまま腕を切開し骨を削らせ治療させました。その時に関羽は酒を飲み、肉を食らい、囲碁を打っていたと言われています

特に発狂などせず関羽が豪胆な性格の持ち主だと分かりますね

華雄との一騎打ち

汜水関の戦いで董卓軍の華雄将軍との一騎打ち。猛将華雄により反董卓軍の進軍は難攻

反董卓軍には袁紹軍・曹操軍・孫堅軍など有力な軍が揃っているにも関わらず誰も華雄を止められない状態という事は華雄もかなり強い武将の一人という事です

そこで袁紹を筆頭に軍議を行った際に華雄を倒せる者がいるか!?と言った際に関羽が一騎打ちに名乗りを挙げました。しかし関羽は当時官職が低かった為袁紹・袁術はただの足軽ごときと不快感を露わにします。その際に曹操がたかが足軽ならばやられても痛くは無いといなし関羽の出撃の後押しをします

出撃をした後に華雄をたった一撃で仕留め董卓軍を敗走に追い込みます。この時の活躍以降曹操の関羽に対する評価が高くなった

実はこの華雄との一騎打ちも三国志演義による創作です。正史である『三国志』では華雄を討ち取ったのは孫堅とされています。更に虎牢関の戦いも含め『陽人の戦い」と記されている

顔良・文醜との闘い

曹操に降っていた最中に曹操との恩義を果たす為、白馬の戦いに赴く

その際に袁紹軍の顔良との闘い

顔良・文醜とは
袁紹軍の2大武将。顔良の強さに関しては具体的な記載は無いが、文醜に関しては曹操軍の徐晃・張遼の2武将を退けるほどの強さを持つ


かなりの猛者である顔良をたった1撃で仕留めてしまう。袁紹軍に突撃した後の記載なので一騎打ちで仕留めたのかどうかは不明

次の延津の戦いで、文醜との闘いも実現するが3合撃ち合った後文醜は退却をするが関羽は背後から文醜を斬ったと言われています

袁紹軍からしたら関羽一人に2大武将を殺されてしまったので、袁紹は劉備に対してかなり怒ってしまいました。実はこの時に劉備は袁紹軍に身を寄せていたので関羽はこの戦で劉備が生きている事を知り曹操軍を離脱します。この後の戦いが知る人ぞ知る関羽千里行です

またまた実の事を記載すると、関羽が顔良を斬った事は正しい歴史書『蜀志』にも記載がありますが、文醜を斬ったという事は三国志演義による創作です。三国志演技の関羽の活躍が多めに描かれている事が伺えますね

黄忠との一騎打ち

蜀の領土を得に行こうとする際の荊州攻略戦の長沙の戦い

関羽は老将黄忠(後の五虎大将軍)との一騎打ちを行う

関羽と黄忠は互角の戦いを繰り広げるも、黄忠は途中で落馬をしてしまう。しかし関羽は相手が老人であった為斬らずに一度見逃します

翌日に再度戦いを繰り広げるも黄忠は弓矢をわざと外します。黄忠は弓の名将で100歩離れた柳の葉を射抜く精度を誇っていました。前日に関羽が見逃した義に答えた訳です

結果両者関羽の一悶着があるも、五虎大将軍に任命される仲間となります

神格化

関羽の神格化

関羽の死後、後世の人間に神格化され関帝(関聖帝君・関帝聖君)となる

関羽を祀る関帝廟(かんていびょう)は世界中にあります。中華街にも存在しますね

当初は屈強な武将だった為武神として祀られていましたが、今現在では商売の神として祀られています。関羽と商売に何の関係があるの?と疑問に思う事かと思いますが、実は関羽は劉備で出会う前は塩の密売人だったのです

ただ塩を売っているだけでは商売の神とまで言われる事は無かったと思いますが、関羽は生前義に厚く最後まで劉備や民に尽くした事は有名でした

商売人にとって最も重要な事は『義』を重視しており、そこから関羽は商売の神と言わるようになった訳です。この商売人達が関羽は商売の神様ですと言い続けた事が所以

仏教では関羽の菩薩像の事を関帝菩薩とも呼ばれています。主に寺の守り神として祀られている

まとめ

関羽雲長という人物まとめ

・三国志には正史と三国志演義がある
・五虎大将軍筆頭(前将軍)
・武と義に長けており傲慢な性格の持ち主
・数々の武勇伝がある
・死後神格化される


関羽に関して色々と記載してみましたがいかがでしたか?完璧な強さ・性格かと思われた関羽にも弱点(傲慢)がありましたね

この傲慢が結果自分を死に招いてしまった訳ですが、関羽の武勲は素晴らしいものだと世間は認めていた(三国志演義による創作面もありますが)

当記事をきっかけに関羽の事に興味を持っていただいたなら幸いです

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